皆さま、もう1月も終わりそうなこの頃ですが……2024年はたくさんお世話になりました、ありがとうございました!2025年もどうぞよろしくお願いいたします!
去年はアルバムを出したり、ライブをしたり、見聞きしていただくものをいろいろと作ることができたうれしい一年でした。その最後に、『ダイブ・イン・シアター』を青土社から出させていただけたこともとてもうれしかったです。発売から1ヶ月くらい経ちました。お手に取っていただいた皆さま、お取り扱いいただいているお店の皆さま、一緒に作ってくださった皆さま、ほんとうにほんとうにありがとうございます!
なんで今、このようなかたまりを書いたのか。自分は音楽を中心として活動しているし、唐突に見えるかもしれませんがきっかけがあります。2016年に『さばーく』という詩集を出した時、作ろうと声をかけてくれた方たちがていねいに、「歌詞」としてしか自分は認識していなかったものを「詩集」として出すことについて一緒に考えてくださったこと、出した後に読んで下さった皆さまからの言葉に触れたこと、エルスール財団新人賞に選んでいただいたこと、いろいろな出来事のおかげで、それまで自分の中にあるようで無かった「詩」というものをはるか遠くに認識するようになったように思います。しかしその姿はぼけていて、詳細はなにもわからない。けれどある、といった感じです。その、すごく遠くにある詩のことがずっと気になっていて、いつか近づいていってみたいと思っていました。
2024年は年始から谷川俊太郎さんのユリイカ特集号に寄稿をする、「しずおか連詩の会」のお誘いを受けるなど、詩に近づくチャンスみたいなものに恵まれました。せっかくのうねりだし、詩に近づくために、まずはたくさん作品を読もうと思っていろいろ読んでいるうち、現代詩手帖2024年6月号の「作品特集 声のありか」に寄稿する機会をいただき、声についてのことを書いた後、なんだか今書くことがある気がする、と感じたので、書こう、と思いました。こうして2024年は読む・書く、双方から詩への接近を試みることにしました。読む・書くに至る一番強い欲望としては、詩の姿や状態をもっとはっきり見てみたいということだと思います。
内容についてですが、この詩集の中にある詩が何について書かれているものか、なんとなくですが、きっとすぐに思い当たってもらえるような気がします。書いていて、この世界でさんざん見つけられてさんざん話されてきたものばかり書いていると感じました。今更そんなことを言っているのか、と思う人もたくさんいると思います。だからと言って書く必要が無いかといえばそうではなくて、誰かは書いたり話してきたとしても、自分はそうしてこなかったので……だから自分は書く必要があると感じて、もうすでにそのことを話してきた人と話すには時間がかかるとしても、テーマに新しさが無いことが意味の無いことのように思ってしまっても、しかしそれはほんとうなんだろうかとあきらめきれなかったのもあって、書こうと思いました。
ある日、大好きな茨木のり子さんが、自身の書いているものについて、「詩のようなものを書いていて」といった言葉を使っているのを見た。あんなにも詩に情熱を持って接近し、書き、読んでいるように感じられる方にとっても、いまだ書くことのできない存在なんだと思ったのを忘れられないのですが、ここから先の文章中、自分が出した「ダイブ・イン・シアター」を「詩集」と呼んで、そこに収められている文を「詩」と呼ぶことにします。何を指すのかわからない言葉を使っていて怖くなると同時に、それがあるものとして使ってみると、すべてを捧げて信仰をひらくように、そこからの祝福され全てを赦される感じがして、その言葉がある世界が当たり前になり、葛藤が消えて、使うだけで見つけ得た感じがして、それも怖いです。
一番最初の詩は、この詩集のはじまりの詩です。いちばんはじめに書いて、本の中でいちばん長い。そして最後の詩は、いちばん最後に書いたものです。そのあいだにある詩の順序は時系列ではありません。どこにどれを置きたいかを考えて構成しました。
はじめの詩から半分くらいまで書いている間は、心身の具合が悪かったです。思うことを言う、そして書くという作業をやっていそうでちゃんとはやってこなかった、書いたものを良く見るというところまでやってこなかったせいだと思う。常時筋肉痛であったり、厚くない皮膚がかぶれてひりひりするという感じだった。それが真ん中くらいから最後の詩まで書いてみるとそれが無くなっていて、心身ともにやや丈夫になり、この心身なら、そしてこのやり方なら、もうちょっと、思うことを詳細に書けるかもしれないと思いました。
書いている間に起こった変化でうれしかったのは、詩の作品、詩集を読むことがほんとうに楽しくなったことでした。この詩集を書く前は、詩というものをどうやって読んだらいいのか、目の前にある詩との距離が果てしなく遠く感じて、呆然としてしまうことも多かった。わからなければそれを言葉のむずかしさ、ということにしてしまったり、わかりそうであれば、この世にあるものと照らし合わせてみたくなって虚心を失ったり、自分がやってはいることであるものの、どうにかそういうことから抜け出したかった。
それが自分も書いてみたあとだと、この作者がこの詩を作ったという事実があるということだけでどんどん読んでいくことができるようになって、ほんとうにほんとうにうれしかった。読めるというか、お邪魔するとか、入ってみるとかそういう感じに近い。そこでなにが起こったのかを作者が自身の言葉で書いている。見慣れない並びやリズムでも、それが作者にとって、自身の外に出すための最良の翻訳と感じられる。みんなよく見て、しつこく、詳しく、その人だけの経験からの検討を経て、詩を作っているんだと思った。なんて面白いことか……。そのあり方に惹かれて、あらためて好きになった。
この変化のおかげで、人間の作者が居るあらゆる作品に触れるのが楽しくなった。人間ではない現象が作る・起こすものをさらに面白く思うきっかけにもなって、それもとてもうれしいです。
あと、書いている間に特に気にしたことを以下に箇条書きにしました。
・わたし・きみ・あなた・こころ・かなしみ、はひらがな
・無い・ない、今・いま、人・ひと、は使い分ける
・見える、はこれで
・電話(携帯電話、有線電話)、ラジオは現役で使用
・乗り物はどこまでも想像して良い
・性格が悪くてもこの世では耐える、あの世では良くなってよし
・尊敬する人の前できぜんと振る舞う、それで遠くに飛んでいってしまっても
・どうしても笑ってほしい友人の前では仕様もなく、それで肉体がどろどろ崩れていってしまっても
・自分、聞き書き、別人、で構成されている
・私の場合、問題は考え書き話せば話すほど遠くなってどうでもよくなってしまう
・内側を考えるために外側へ行くこと
・過去の出来事、よろこびもかなしみもなくただ残っているままに書くこと、それはかつてそうだったからそうすること
・感情や物事に始末をつけない、解決しない
・とどまる宿での夜の出来事
・私は私のことを話し書くことができないこと、きみを描くことで私は私を知ること
・相互作用(助けながら助けられている、信じられていながら信じている)
・人からは、自分へと相手への二方向へ向く力がはたらいている、相手いると、どちらも増す、その時、わたしたち、と言わないことがこの二方向をより強める
『ダイブ・イン・シアター』について、今自分が書くことはこのような感じです。ちょっとでも詩に接近できるよう、また書き・読んで、そして音楽からも、というかあらゆるところから試みていけたらと思います。ここまで読んでいただいてほんとうにありがとうございました!
幸福にも、朗読会を開催させてもらい、電子書籍版もあり、かたちに幅を持たせてもらうことができました。心身の状態に合いそうなかたちで触れていただけたらすごくうれしいです。録音も出来たらいいな、オーディオブックのような……。
それではいつかお手に取っていただけたら幸いです!どうぞよろしくお願いいたします!
柴田聡子